「個性重視の『みんな違ってみんないい』が努力をしない子供をうみだした。」本当でしょうか?
ここでは、「個性を大切にすること」と「努力すること」の関係について考えたいと思います。
「みんなちがってみんないい」は、今の自分に安住することではなく、「自分の違いを活かせる、自分の成長を信じる」ということです。
「努力する」ということは、「今ある何かを変える」ということです。
昔以上に、努力が大切な時代になってきていると思います。
「不確実な社会」に生きるからこそ、変化を前提として努力できることが大切になります。
「みんな違ってみんないい」は、とても大切なことを私たちに伝えています。
「みんなと違う自分を、不完全な部分も含めて受け入れて好きでいながら、今の自分の成長する力を信じ、欲しい部分を満たすための努力する幸せ」に気づこうね、が、
「みんな違ってみんないい」であり、「あなたのままでいいんだよ」なのだと思います。
「真の意味での個性重視の『みんな違ってみんないい』」は、自分を信じるて努力をするこどもを育てることができると思います。
「みんな違ってみんないい」は「自分を好きになって成長させよう」の意味
はじめに
今のこどもは努力しない?!
「昔の子どもと比べて、今の子は努力しない。ハングリー精神とかガッツがない。」
「個性重視の『みんな違ってみんないい』が努力をしない子供をうみだした。」
こういう言葉を時々耳にします。
「そんなことないよ!」というこどもたちの声が聞こえてきそうです。
私達の世代も10代20代の頃は年長の世代から「(何を考えているか分からない)新人類」と呼ばれていましたので、こどもたちの不名誉に感じる気持ちはわかる気がします。
さて、今のこどもたちは、本当に、努力も、ハングリー精神もガッツも無いのでしょうか?
「ガッツ」って何?
「ガッツ」とは何でしょう?
デジタル大辞泉では、
と、解説されています。
このコラムの目的
ここでは、「実際に努力しないか?ガッツが無いか?」の事例探しや検証はしません。
ガッツは努力の原動力です。
ここでは、努力のもととなる「ガッツ」はどこから来るものなのか、どのようなプロセスで、それが生まれるのかを考え、努力(ガッツ)を支援するとはどういうことかを考えてみたいと思います。
ひとりひとりの「その人らしさ」を大切にするということ
個性の受容の意味合い
「みんな違ってみんないい」がよく聞かれるようになったのは、初等中等教育現場で、「個を大切にする教育」が進められたころだったように思います。
「画一教育」「均質教育」ではなく、「ひとりひとりの個性を大切にする教育」。
大切な考え方だと思います。
しかし今、この「みんな違ってみんないい」が、「優劣をつけない(明らかにしない)」という教育に読み替えられているように思います。
金子みすゞは、優劣について触れているわけではなく、「小鳥」も「鈴」も「私」も、みんな違っていて、それぞれの持つ特別さがそれぞれにいいと言っています。
この一節を取り出して教育に持ち込んだ先達の意味合いは、みすゞの意図そのままに、「個性の受容」を意味していたと思います。
人間の成長の場としての教育現場で、その意図を、
一歩進んで、「『まず』、そのままの自分を受容しよう」と伝えています。
「ひとりひとりが受容される大切な存在なんだよ」という意味だったのだと思います。
「あなた(自分)を受け入れていますよ。そのままで大切な存在なんですよ」と伝えています。
個性にあぐらをかいてはいけない
ところが、
「あなたを受け入れていますよ。あなたはあなたのままで大切な存在なんですよ。あなた自身をまず好きになってください」
ということを、その意図をきちんと伝えていないと、色々なところで支障が生じます。
きちんと分かりやすく表現している言葉が、
であり、
のはずなのです。
しかし、「そのまま」であることにあぐらをかいて、安住している様子を見かけることがあります。
もっと、分かりやすく言えば、「みんなちがってみんないい」「あなたのままでいい」の二つの表現は、「自分のありのままを『受け入れること』の大切さ」を伝えているのであり、もっと踏み込めば、「自分の成長を信じていいよ」ということを意味しているのです。
個性を受け入れることは大切だけれども、個性だからと特徴だからと、成長や発達の努力をしないのは、間違っていると思うのです。
「ありのままの自分を受け入れる」と同時に、「自分の成長を信じる」をセットにすることが大切です。
「自分の成長を信じる」ということは「今のままの自分のままではいないぞ」という決意でもあるのです。
「ありのままの自分を受け入れつつ自分を認めない」とはどういうこと
自分を信じて挑戦すること
「ありのままの自分を受け入れつつ、自分の成長を信じる」が、「今の自分の個性(特徴)にあぐらをかかない」ということです。
誤解を恐れずに書けば、
ともかけます。
ともかけます。
小学2年生で逆上がりができなかった私の思い出
私は、非常な運動オンチで、これにまつわるエピソードに事欠きません。
「今のままの自分を受け入れつつ、認めない(=成長を信じる)」とはどういうことか、分かりやすさのために、私自身の体験談を紹介したいと思います。
私は、小学2年の時点で、逆上がりができませんでした。もしかしたら3年生だったかもしれません。とにかく、授業で逆上がりを習っていた時期でした。クラスのほとんど(全員だったかもしれません)が逆上がりができました。
もともと運動神経のない私でしたが、(その言い訳として)「障害物競走など、運動神経だけでは勝敗が決まらない、一ひねりする運動では負けないぞ」という美学を持っていました。ですので、生まれながらの運動神経勝負の徒競走などとは違う、障害物競走の分類と私が感じていた、鉄棒ができないということはとても悔しいことでした。
今と違って(たぶん、今はそういう方法は取らないのではないかと思う)、「〇回出来たら、三角座りで待ちましょう」みたいな、私にとっては公開処刑に思えるような授業スタイルであったこともあり、「かけっこでビリッケツの方がよっぽどましだ」と思いながら、「ハイやめましょう」と先生があきらめるまで、鉄棒を掴みながら、空を蹴り上げていました。
これではいけないと思って、自主練を始めました。木のそばに鉄棒がある、神社の境内のような公園でした。
何日か続けると、手のひらの親指の根元の、ぷっくりと膨らんでいるところが全体的にマメになってきました。(今思うと、どうしたら、そんなところがマメになるのか疑問ですが。)それでもやめるわけにはいかないので、練習を続けました。そして何回目かに、バリッっという手のひらのマメが潰れる大きな音(と私は感じた)とともに逆上がりが初めてできました。
ほとんどのクラスメートができている逆上がりでしたが、その時の、静かなしみこむような嬉しい気持ちを、今でも、潰れたマメの映像と共に、鮮明に覚えています。
「鉄棒ができなくてもいいんだよ」ともし、先生が言っていたら、私は努力しなかったかもしれません。ガッツを出さなかったかもしれません。「鉄棒ができない自分に価値が無い」とは思わなかったけれど、「鉄棒ができるようになるはず」と自分を信じたのだと思います。
この体験は、「逆上がりができたかどうか」以上の事を私に与えたのだと思います。
みんな違ってみんないいってどういうこと?
できないことは個性ではない
「みんな違ってみんないい」は、金子みすゞの詩の一節です。
私はこれに大賛成で、だからこそ、Maker’s Clubで、こども達に、自分の持つ「特別さ」を大切にして、成長・発達してほしいと思っています。
この「みんな違ってみんないい」を正しく解釈しておくことはとてもとても大切です。
何か、時々、この言葉が伝えたいことを誤解しているのじゃないかしら?と感じる時があります。
例えば、「できないのも個性」という表現を聞いたことがあります。
この表現が使われる文脈によって、その表現が伝えたい意味は大きく変わるので、この表現を全否定するつもりはありません。
しかし、少なくとも、「できない」ことをそのままにして「個性」という言葉で片付けているのなら、それは、何かが違うと感じます。
(仕事などは別として、)こどもたちをはじめとする発達段階では、「できるかどうか」だけでなく、「できるために何をしたか」に注目したいです。失敗であったとしてもその努力に注目して、称賛したいです。
失敗は成功アイテム
Maker’s Clubでは、「失敗は成功アイテム」が合言葉です。「失敗した」ということは、「挑戦した」「努力した」ということだからです。称賛に値する行動です。
失敗すれば、「何を工夫(改善)すれば、したかったこと(目的)ができるようになるのか?」を考えます。
仲間たちがそれぞれに違うことを違う方法で工夫しながら挑戦して、失敗したり、うまく行ったりしている時に、「みんな違ってみんないい。あなたのペースで、頑張ろう。」と伝えています。
「みんな違ってみんないい」と「努力の価値」
「みんなちがってみんないい」が、間違った解釈で一部のこどもたちに伝わっている危険性は否定しません。
「あなたのままでいいんだよ」は、「努力しなくていいんだよ」ではありません。
時代とともに、文化も求められることも変わっていきます。同じである必要はないし変化するから進歩があるとも言えます。
でも、「自分の成長を信じる」ということの大切さは変わらない。
成長を信じることは、今のままの自分が「ダメだ」と思うことではありません。
「今のできない自分も好きだけど、できない自分ができるようにと努力している自分が大好き」
と感じながら、日々を生きていくことが大切だと思います。
自分を信じることは努力に価値があると知っていることです。
多様な社会がもたらした、「努力で報われるもの」
「努力しても必ずしも報われないのか」
メディアなどで、「努力しても必ずしも報われるとは限らない」ということを言う人たちがいます。
本当に、努力してもなんにも自分の人生に影響がないのなら、
「どのみち努力が報われないのなら、苦しんで努力するより、今が楽しけれりゃいいじゃん」
と思うのは当然です。
でも、本当に努力することは無駄でしょうか?
「これまでの社会は、努力すれば報われたが、今の社会では努力しても報われない」のでしょうか?
社会の変化から、そのことを考えてみようと思います。
他者から与えられることを期待する褒美としての「報い」
「努力が報われない」でイメージする「報い」は何を指しているでしょうか?
「十分に努力したのに、報われなかった」という事柄です。例えば、
就職、昇進、、などでしょうか?
※受験に対しても使われるかもしれませんが、努力が足りていれば報われる場合が多いように思います。
これらの事柄に特徴的なのは、「社会」や「文化」が絡んでいるということです。
「努力は報われない」と言っている人たちの指す「報われる」事柄が、他者から与えられるものを指しているために、不確実性が高い今の時代では、得られにくくなっているのだと思います。
不確実な社会がもたらした、他者から与えられるものの不確実さ
昔の社会は、多様性が低かったと思います。
親の生きてきた経験を参考にして、その通りにすれば、同じような人生の予想が立つ時代だったのだと思います。
そのような社会では、人々の望みも似通っていたと思います。
だから「努力」も「報い」もつながりやすかった。
時代と社会、文化が今は変わりました。
昔は、「努力の結果」得たいものは、「他者から与えらるもの」であることが多く、その与えられる確実性がとても高かったということだと思います。
確実性が高かったのは、個人の求めることが似ていたからだと思います。
今は、「みんな違ってみんないい」に表現されるように、価値観も生き方も多様化し、社会も変わりました。
今は、多様であることが大切で価値のある社会になったのです。
今と未来の社会は、過去の社会の延長線上に無い、不確実な社会です。
そのような不確実な社会では、自分の課題や人生を自分で考えて設計していくことが求められます。なぜなら、「他者から与えられる」ことが「不確実」になっているからです。過去の「他者から与えられることを前提に人生を設計する」という考え方は通用しない時代になったのです。
今の時代は、一つ一つの小さな課題も、人生全体も、自分で考えて行動していくことになります。行動するということは、努力するということです。そこでは、自分の努力を「誰かに報いてもらう」のではなく、「自分自身が努力を称賛(認める)する」ことが大切です。
努力するということは、今を変えるということ
「努力する」ということは、「今ある何かを変える」ということです。
昔以上に、努力が大切な時代になってきていると思います。
「不確実な社会」に生きるからこそ、変化を前提として努力できることが大切になります。
「みんな違ってみんないい」は、とても大切なことを私たちに伝えています。
「みんなと違う自分を、不完全な部分も含めて受け入れて好きでいながら、今の自分の成長する力を信じ、欲しい部分を満たすための努力する幸せ」に気づこうね、が、
「みんな違ってみんないい」であり、「あなたのままでいいんだよ」なのだと思います。
「真の意味での個性重視の『みんな違ってみんないい』」は、自分を信じるて努力をするこどもを育てることができると思います。
2020年11月8日 中谷敬子
余談:実を結ばなかった努力は、形を変えて、後にもっと大きな実を結ぶ
根拠はないのですが、努力や経験についての、自分の感覚を書きます。
「実を結ばなかった努力も無駄ではない」ということです。
「自分自身が努力を称賛する(認める)」と、どういうわけか、努力したその時には、達成したい目標としては「報われなかった」結果となっても、巡り巡って、後に、その時の努力や結果が、自分の目標を達成する事柄や力になっていたりするのです。
経験と努力に無駄はないと信じています。