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夢へのバトン#8「技術者ってなんだろう?」

「夢へのバトン」シリーズ
技術者から、未来のメイカーへのメッセージをお届けするシリーズです。技術者の日常や情熱、思いを味わってください。

2020.09.
月ヶ洞 稔 (つきがほら みのる)(元重工業メーカーの技術者)

子供の頃、私は人と話をすることが苦手で無口な子供でした。模型飛行機の竹ひごをロウソクの火で炙りながら翼の丸みを出すのがなかなか難しく、上級生のも頼まれて作り喜んでいました。

技術者として働き始めると、新人の私も製図板の上で、用紙一杯に鉛筆で設計図を描く毎日でした。構内の工場では、最初に描いた図面の単純で小さく見えたボルトが実物では驚くほど大きく、いくつものブロックが組み立てられて何十トンもある大きな機械に変身してゆく様を見て感心しました。

アメリカでの仕事を通じて、相手との交流に大事なのは英語よりも自分の専門技術や日本のことをきちっと知っていることだと思い至りました。これら多くの人々と話合い理解しあえたのは、技術者という共通項の橋渡しがあってのことでした。

“地球に住みやすさを取り戻す”ための技術を磨けば、世界人類のために大きな貢献ができます。これは理工系の技術者・科学者がいなければできません。

皆さんはそういう技術者・科学者を目指してください。

技術者ってなんだろう?

はじめに、自己紹介。

私は今75歳のおじいさんです。

現役の若いころは重工業メーカーの技術者でした。

製鉄所の設備機械の設計を主として、設計図面を描いたり計算したり未来設備の開発に従事したり、たびたび国内や外国の製鉄所へ出張して多くの技術者達と交流しました。

お互い技術者として議論し教えられることも多くあり、充実した時を過ごすことができ、結果として社会の発展に役に立てたことはとてもよかったと思っています。

子供の頃はどんな子だった?

そもそも、なぜ技術者になったのかな。

子供の頃、私は人と話をすることが苦手で無口な子供でした。ミカン箱やかまぼこの台板を使ってよく船を作ったり、製作キットの材料で飛行機を作ってよく遊んでいました。竹ひごをロウソクの火で炙りながら翼の丸みを出すのがなかなか難しく、上級生のも頼まれて作り喜んでいました。

当時は今のようになんでもプラモデルがあり簡単に模型を作れるようなことはなく、ノコギリやセメダインやサンドペーパーで手作りしていました。

また父が、役所勤めの土木技術者で道路や橋を作る仕事をしていましたので、家にも工事中や竣工式の写真などがあり、よく眺めていました。田舎道がきれいな舗装道路になったり、木造の小さな橋が美しいアーチの鋼製の橋に架け変わったのを見て、何か形のあるものをつくりあげていくのはいいなと感じていました。

少年時代

中学3年生になると高校進学で行きたい学校を決める時期が来ます。

自分は話が苦手で商人には向かないし、カエルの解剖がダメで医者にも向かないのでものづくりをする技術屋になればいいと思っていましたので、迷うことなく大学の工学部を目指し高校に入学しました。

ここでは市内だけでなく周辺の市や町から多くの若人が集まってきていました。

活発で雄弁な子も、無口で私と似たような同級生も結構おり、友達になって話すと世界が広くなったような気がしました。先生の質問に答える同級生を身近に見て感心したり、弁論大会で堂々と意見を発表する仲間を見たりで、世の中にはいろいろなやつがいるなと刺激も受けましたが、自分はやっぱり理工系だなと得心しました。

社会人としてどんな仕事をしていたのかな。

造船会社に入社、技術者としての一歩を踏み出しました。

大学の工学部を卒業して入ったのが重工業の造船会社ですが、造船部門とは関係がない陸上機械部門の製鉄機械部に配属されました。仕事は製鉄所の設備の設計・製造・建設です。

私が配属された課は「連続鋳造設備」というドイツで発明された画期的省エネ設備の設計が業務でした。新人の私にも製図板(当時はパソコンもなくCRT上に図面を描くなど夢の話)が与えられ、トレーシングペーパーと呼ばれる用紙一杯に鉛筆で設計図を描く毎日でした。

構内の工場では、分厚い鉄板が切断され・溶接され・機械で削られて製品ができあがってゆくのを見ることができました。最初に描いた図面の単純で小さく見えたボルトが実物では驚くほど大きく、いくつものブロックが組み立てられて何十トンもある大きな機械に変身してゆく様を見て感心しました。

欧州や米国を抜いて日本が世界一になりつつあった製鉄業。技術者達の熱気

私が入社した頃は日本の高度成長が始まったところでした。

鉄鉱石から銑鉄、鋼、鋼板まで一貫して製造する銑鋼一貫製鉄所が建設され、日本の製鉄業は、欧州や米国を抜いて世界一になりつつあり、日本全体がすごい熱気で進んでゆく時期でした。

銑鋼一貫製鉄所では鉄鉱石を高炉(溶鉱炉)で溶かして銑鉄をつくり(製銑工程)、これを製鋼炉(転炉)で成分調整して溶けた鋼とします(製鋼工程)。そして、溶けた鋼を連続して凝固させるのが連続鋳造設備です。

図 鉄鋼の製造工程

写真には、凝固して液体から固体になったばかりのまだ赤い鋼の塊(これをスラブといいます)が見えます。

こうして製造されたスラブは、次の圧延設備のプロセスに送られて鋼板となります(圧延工程)。厚い鋼板は造船会社などへ、薄い鋼板は自動車会社など多くのメーカーに向けて出荷されます。

凝固とは、液体が固体に変化することを言います。

CCP連続鋳造設備(日立造船技報(vol.34(1973)No.2)の表紙写真)

真っ赤に溶けた銑鉄や溶鋼の温度は千数百度もあるので、これらのプロセスでは石炭・電気・酸素・水などの膨大なエネルギーを消費します。このエネルギーを可能な限り少なくしてコストを小さくし、さらにできた製品の品質をより良くできたところが勝者となり生き残ることになりますので、製鉄所では競って新鋭設備に更新しようとします。

欧米の製鉄所は従来優れた発明により技術優位にあったのですが、後発の日本はその最新技術を買って適応しながら、海岸の埋め立て地に理想的な設備配置の新鋭設備を投入することで短期間に世界一になりました。

高温で溶かした鉄の液体を分厚い板にする装置のものづくり

私の職場では「連続鋳造設備」という溶鋼を鋳造して分厚い板(スラブ)にする設備を設計していました。

多くの製鉄所が競って設備導入に走りましたので、私の職場も大忙しでなかなか休日がとれないようなことが長く続きました。

日本中に新設備がいきわたってしまうと、そのころから外国の製鉄所が日本に追いつけとばかりに「連続鋳造設備」を日本に注文してくるようになりました。

当初は当時開発途上国と呼ばれていた韓国・ブラジル・メキシコ・台湾からでしたが、先進国のトップと思われていたアメリカから注文が来たときは驚きました。

アメリカ人を相手にするには英語が分かる者というので若い私が担当を命じられました。学校の教科では英語は読み書き主体で会話はなかったので、アメリカ英語でワウワウやられると半分も理解できず最初は困りました。

大人になっても私の無口は変わらないのですが、外国の技術者達に設備を理解してもらうために知っている英語を総動員してしゃべりました。図面を前にしてのカタコトの技術会話ならなんとかなったのですね。中学生の頃からラジオやレコードでアメリカの歌を聴いていたのも役に立ったようです。

海外交流で大切なことは、専門技術と日本の事を知っていること

こうして2年ぐらいアメリカへ行ったり来たりで耳も慣れた頃、相手との交流に大事なのは英語よりも自分の専門技術や日本のことをきちっと知っていることだと思い至りました。

これを機に無口な自分におさらばしました。

いろんな国の製鉄所を訪問し連続鋳造設備の導入に関係し、同じような技術者達と議論したり、たまに輪になって酒を飲み交わしたりで、しんどいけれど楽しさもあり、充実した時を過ごしました。

ソウルオリンピックの前後に海岸埋め立て地の広い草原が、10年のお付き合いで5基の新鋭設備に成長したのを共に祝った韓国の若い技術者たち、上海ではまだ膨らんだ人民服を着て必死にメモを取っていた中国の技術者たち、メキシコやブラジルで優秀だがアッケラカンとしていた技術者達、ソ連が崩壊してロシアになりつつある頃のとまどったような技術者達、そしてしばしば出張で同行した当時、西ドイツの技術提携先の自信たっぷりの技術者達の生き生きとした顔が浮かびます。

これら多くの人々と話合い理解しあえたのは、技術者という共通項の橋渡しがあってのことでした。

おかげさまで日本の高度成長に寄与できて、外国の製鉄所の役にも立てたかと誇りに思っています。

これからの若い人に期待すること

ところで現在は若者の間でも理工系に進み技術者になろうとする人が減少していると聞きます。

現代はIT時代と言われますが、アメリカを先頭に韓国や中国にまで日本は後塵を拝しているようで残念です。生活必需品となったスマホもパソコンも日本製は少ないし、ソフトはほとんどアメリカのシリコンバレーからですね。

これからの日本ではIT技術を応用してもっと大きく社会に貢献できることがあるでしょう。

私の時代の目標は国や社会が成長・発展することでしたので、技術者が工業化で高度成長を支える時代でした。その結果、副作用としていろいろな地球環境破壊の問題もあらわになってきています。

もともと災害が多い日本の国、さらに異常気象のため災害がよりひどくなってきています。

これからの若い人には、“地球に住みやすさを取り戻すこと”に頑張ってもらいたいと思います。

“地球温暖化を最小にする技術”を磨き、環境を破壊せずに原発無しでもやっていけるようになれば世界人類のために大きな貢献ができます。これは理工系の技術者・科学者がいなければできません。

皆さんはそういう技術者・科学者を目指してください。

3年がかりで製作したバイオリン

さて、子供のころ培った木工細工は、65歳から3年がかりで製作したバイオリンで実を結びました。

下の写真は、バイオリン自作第1号の表板を加工しているところです。いろいろな種類のノミを使って丁寧に削り出しています。

バイオリン自作第1号の表板を加工しているところ

次の写真が、3年がかりで完成した自作のバイオリン第1号です。

形と寸法はストラディバリウスと同じです。

3年がかりで完成した自作のバイオリン第1号

そのバイオリンを弾くレッスンを受け始めてから3年半立ちます。

今さらバイオリニストにはなれませんが、ゆっくりと楽しめるようになりたいですね。

月ヶ洞 稔 (ツキガホラ ミノル)2020.9月

月ヶ洞 稔 (つきがほら みのる)
重工業会社にて連続鋳造機の設計を長年担当しました。
日本国内外の製鉄所に数多くの納品実績があります。写真は、中欧オーストリア ザルツブルクの東部にあるハルシュタット湖、世界遺産の美しいところです。

#夢へのバトン

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